~古民家・定年・集いの場~「やたいさんのコテツの部屋」

◆10年程前「私の夢:集いの場をどう作るか」というブログを行っていました。夢は達成されていませんが、これまで行ってきたことや、今後の取り組みなどを、時事的なものと絡めて記していきます。コ(古民家)テ(定年)ツ(集いの場)がキーワード。

◆野蒜小学校のその後

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東松山震災ボランティアの会が、12月11日に立ち寄ったのは東松島市の野蒜小学校。
7月には、校舎の机や椅子の片付けと、体育館舞台下のヘドロ掻き出しを行なった所だ。

その当時、校舎の中はまだまだ手付かずで、波に浸かった1階はヘドロを掻き出している最中。
2階以上は、子供達が授業で使っているものや、避難準備で用意した防災頭巾などが散らばり、
震災当時のまま、時間が止まっていた。
体育館の床は、その前の週にヘドロの掻き出しは終えていて、舞台の下の倉庫が未だ手付かずで、
片付ける作業だった。

作業の前に献花台に黙祷し、児童養護施設支援の会の高橋さんに、3.11の話しを聞いた。
この野蒜小学校は、震災時の避難所だったため、地震後に地域の人たちも多く避難してきていた。
そこに、体育館の1階部分まで津波が襲ってきて、多くの人が犠牲になった。
また、その後、遺体安置所にもされた所だ。

本日発売の講談社『FRIDAY:東日本大震災前記録』にはその当時の野蒜小学校の様子が掲載されている。
見覚えのある体育館の床は、ヘドロや漂流物でごちゃごちゃな中に、パネル板やマットの上に
毛布で包まれた遺体が何十人も横たわっている・・・
7月の野蒜小学校に立った、その4ヶ月前には、このような惨状がそこにはあった。

今回見た野蒜小学校は、東松山市のBOSSUから贈られたコンテナハウスが整然と並び、
校舎も復興支援の拠点として使われており、随分きれいになっていた。

震災当時の様子を写真で知り、その後のヘドロ掻き出しを実体験し、その後の復興した様子を
見ることで、感慨深いものがあった。
私達が汗流して片付けた場所が、これだけ復興している!これは、何はともあれ嬉しいことだ。