◆「つながろう!絆(きづな)」
本日、東松山市の松山中学校体育館で「つながろう!絆(きづな)」というテーマで、
宮城県東松島市の菅原節郎さんをお招きして、被災体験談を聞いた。
この企画は、東松山市地域性か粒地域づくり支援課と人権推進課の主催。
協力として、もちろん東松山震災ボランティアの会も一枚噛んでいる。
菅原節郎さんは、合併前の鳴瀬町議会議員から、合併後の東松山市議会議員2期目の議員さんである。
東日本大震災で被災、避難所のリーダーとして活動し、7月に東松島市議会副議長に就任している。
東松島市は人口約45,000人。その内、1,047人が亡くなり、92人が今だ行方不明である。
市民のうち、家屋の全壊、半壊まで含めると、約1万1000戸程。
震災後86箇所の避難所に15,000人が避難していた。
菅原さん自身、車で移動中津波に飲まれたものの、間一髪で脱出し、近くの家の2階に何とか逃れ、
一命を取り留めた経験を持つ。
地震後一度家に戻った時に、妻や長男には会うことができたが、その後近所の一人暮らしの老人を
助けに行ったのを最後に、二度と会うことができなくなった・・・
翌日、途中で合流した小学校1年の子供を背負い、安全な場所に移動する。また、その途中で、
出会った「この子だけは・・・」と言いながら、亡くなった赤ん坊を抱いた若い母親。
声に詰まりながら、語られたその話には、こちらも涙が流れた。
このような経験をしたのは彼のみではなく、東松島市の多くの方がこのような経験をしている。
菅原さんは野蒜小学校の避難所に数週間いたのだが、避難所での様子なども詳しく話してくれた。
野蒜小学校や鳴瀬二中等は、ボランティアで泥土の掻き出しなども行なっていたので、リアルな
話とその場所が結びつき、改めて強いショックがあった。
避難所での経験から、「新たなコミュニティを作ろう」という意識が大事。
また、菅原さんが最後に伝えた言葉は、
「今伝えたいのは、感謝の気持ちと、今度は支援する立場になりたい」という事・・・
東松山震災ボランティアの会では、今後「聞き書き活動」ということを考えている。
つらい作業でもあるが、このような体験を風化させないことを菅原さんも強く望んでいる。
まして、今後の日本は、いつどこでも必ず大地震が起こる可能性はあるわけだから、
このような体験を生かさなければいけない。
宮城県東松島市の菅原節郎さんをお招きして、被災体験談を聞いた。
この企画は、東松山市地域性か粒地域づくり支援課と人権推進課の主催。
協力として、もちろん東松山震災ボランティアの会も一枚噛んでいる。
菅原節郎さんは、合併前の鳴瀬町議会議員から、合併後の東松山市議会議員2期目の議員さんである。
東日本大震災で被災、避難所のリーダーとして活動し、7月に東松島市議会副議長に就任している。
東松島市は人口約45,000人。その内、1,047人が亡くなり、92人が今だ行方不明である。
市民のうち、家屋の全壊、半壊まで含めると、約1万1000戸程。
震災後86箇所の避難所に15,000人が避難していた。
菅原さん自身、車で移動中津波に飲まれたものの、間一髪で脱出し、近くの家の2階に何とか逃れ、
一命を取り留めた経験を持つ。
地震後一度家に戻った時に、妻や長男には会うことができたが、その後近所の一人暮らしの老人を
助けに行ったのを最後に、二度と会うことができなくなった・・・
翌日、途中で合流した小学校1年の子供を背負い、安全な場所に移動する。また、その途中で、
出会った「この子だけは・・・」と言いながら、亡くなった赤ん坊を抱いた若い母親。
声に詰まりながら、語られたその話には、こちらも涙が流れた。
このような経験をしたのは彼のみではなく、東松島市の多くの方がこのような経験をしている。
菅原さんは野蒜小学校の避難所に数週間いたのだが、避難所での様子なども詳しく話してくれた。
野蒜小学校や鳴瀬二中等は、ボランティアで泥土の掻き出しなども行なっていたので、リアルな
話とその場所が結びつき、改めて強いショックがあった。
避難所での経験から、「新たなコミュニティを作ろう」という意識が大事。
また、菅原さんが最後に伝えた言葉は、
「今伝えたいのは、感謝の気持ちと、今度は支援する立場になりたい」という事・・・
東松山震災ボランティアの会では、今後「聞き書き活動」ということを考えている。
つらい作業でもあるが、このような体験を風化させないことを菅原さんも強く望んでいる。
まして、今後の日本は、いつどこでも必ず大地震が起こる可能性はあるわけだから、
このような体験を生かさなければいけない。