~古民家・定年・集いの場~「やたいさんのコテツの部屋」

◆10年程前「私の夢:集いの場をどう作るか」というブログを行っていました。夢は達成されていませんが、これまで行ってきたことや、今後の取り組みなどを、時事的なものと絡めて記していきます。コ(古民家)テ(定年)ツ(集いの場)がキーワード。

◆「つながろう!絆(きづな)」

本日、東松山市の松山中学校体育館で「つながろう!絆(きづな)」というテーマで、
宮城県東松島市の菅原節郎さんをお招きして、被災体験談を聞いた。
この企画は、東松山市地域性か粒地域づくり支援課と人権推進課の主催。
協力として、もちろん東松山震災ボランティアの会も一枚噛んでいる。

菅原節郎さんは、合併前の鳴瀬町議会議員から、合併後の東松山市議会議員2期目の議員さんである。
東日本大震災で被災、避難所のリーダーとして活動し、7月に東松島市議会副議長に就任している。

東松島市は人口約45,000人。その内、1,047人が亡くなり、92人が今だ行方不明である。
市民のうち、家屋の全壊、半壊まで含めると、約1万1000戸程。
震災後86箇所の避難所に15,000人が避難していた。

菅原さん自身、車で移動中津波に飲まれたものの、間一髪で脱出し、近くの家の2階に何とか逃れ、
一命を取り留めた経験を持つ。
地震後一度家に戻った時に、妻や長男には会うことができたが、その後近所の一人暮らしの老人を
助けに行ったのを最後に、二度と会うことができなくなった・・・

翌日、途中で合流した小学校1年の子供を背負い、安全な場所に移動する。また、その途中で、
出会った「この子だけは・・・」と言いながら、亡くなった赤ん坊を抱いた若い母親。
声に詰まりながら、語られたその話には、こちらも涙が流れた。

このような経験をしたのは彼のみではなく、東松島市の多くの方がこのような経験をしている。
菅原さんは野蒜小学校の避難所に数週間いたのだが、避難所での様子なども詳しく話してくれた。

野蒜小学校や鳴瀬二中等は、ボランティアで泥土の掻き出しなども行なっていたので、リアルな
話とその場所が結びつき、改めて強いショックがあった。

避難所での経験から、「新たなコミュニティを作ろう」という意識が大事。
また、菅原さんが最後に伝えた言葉は、
「今伝えたいのは、感謝の気持ちと、今度は支援する立場になりたい」という事・・・

東松山震災ボランティアの会では、今後「聞き書き活動」ということを考えている。
つらい作業でもあるが、このような体験を風化させないことを菅原さんも強く望んでいる。
まして、今後の日本は、いつどこでも必ず大地震が起こる可能性はあるわけだから、
このような体験を生かさなければいけない。