~古民家・定年・集いの場~「やたいさんのコテツの部屋」

◆10年程前「私の夢:集いの場をどう作るか」というブログを行っていました。夢は達成されていませんが、これまで行ってきたことや、今後の取り組みなどを、時事的なものと絡めて記していきます。コ(古民家)テ(定年)ツ(集いの場)がキーワード。

◆大川小学校

<2日目の朝の被災地見学で、今回は初めて大川小学校に行かせてもらった。
この学校は生徒108人の小さな小学校なのだが、20数年前に建てられた校舎は、被災した後で見ても、
とてもモダンな佇まいだ。
円形の玄関や、別館へ2階からも行ける、天空の渡り廊下なども、とてもしゃれた作りになっている。
卒業生の卒業制作として残された、宮沢賢治の「雨にも負けず」の壁画が何とも悲しく、心に響く。
目を閉じると、3月11日以前の、子ども達の響く声を想像すると、北上川と裏山の自然に囲まれた、
とてものどかで温かみのある学校だったことが覗われる。

しかしこの小学校は、津波で108人中74人が亡くなるという悲劇の小学校として有名になってしまった。
20名ほどの生徒は親がすぐに迎えに来て難を逃れた。残されて近くの高台に避難しだした矢先を、
10メートルの津波が襲った。
助かった生徒はわずか4名、その時そこにいた先生はたった1名。
たまたま、波に打ち上げられ、裏山の木などに引っかかり、偶然に命を拾ったのだ。
避難するまでの判断に時間がかかり、高台への非難が結果的にこのような結果になってしまったことで、
教員の判断の過失があったのではないかと、今遺族から責を問われている。
確かに、裏山は学校のすぐ裏手。30度以上の急斜面とはいえ、椎茸の栽培などで、授業で山にも
行っていたらしい。
しかし、「樹木が倒れていて避難には向かない」「学校に避難してきていたお年よりは斜面を登れない」
「ここまで津波はこない」など喧々諤々のやり取りがあり、結果として高台を選んでしまった。

確かに全国的に見て、これだけの被害が出た学校は他にないとのこと。
これを聞くと、やはり判断の誤りや、情報不足があったことは確かであろう。
「10mの津波が来る」という情報があれば、できるだけ高いところに逃げることは誰でも思うに違いない。
人間は危機に際して、理由のない同調や、楽観的な推測等にとらわれやすいという。
この悲劇を繰り返してはいけない。