◆牡鹿半島から南三陸へ
23日(日)は、牡鹿半島から南三陸にかけて、バスによる被災地の視察研修をさせていただいた。
牡鹿半島は、東北地方太平洋岸で有名な、リアス式海岸の一番南端に当たる。
リアス式海岸の地形は、湾の奥に行けば行くほど、津波を大きく増長させる。
私の記憶では、最高到達点が38メートルとなった、岩手県の場所があったかと思う。
牡鹿半島から南三陸町までは、湾の入り江毎に小さな漁村が軒並み津波の被害を受けている。
亡くなった人口は、石巻などに比べればずっと少ないのだが、交通の便が悪いこともあり、
復興はかなり遅れ、まだまだ手が付けられていないところも多い。
道路も未だ崩れていたり、通行止めや相互通行ができない道が、何箇所も見られた。
女川の町立病院から見た街は、残す建物以外は瓦礫も全て撤去されたまっさらな街になっていた。
他のバスツアーの人に、地元の方が震災時の語り部をしていたが、思わず耳を傾けてしまう、
真に迫った体験談であった。
東松島市の菅原道郎さんの話もそうであったが、命が助かった人の中にも、間一髪で助かった人は、
沢山いるのである。
大川小学校では、仮設の慰霊碑に変わって、新たに母子像を配した物ができ、式典を行なっていた。
バスから降りることはできなかったが、参加者の多くには遺族の方が含まれていたことだろう。
南三陸では、鉄骨のみになった防災センターの前で、仙台市の聾者の会が、最期までアナウンスを
して殉職となった遠藤未希さんの両親に、折り鶴を渡している場に出くわした。
その後、奇しくも、ご両親の気持ちなどを聞くことができた。
「6mの津波が来た時点で、避難していたら・・・」やはり両親として悔いが残る。
この防災センターも、「震災の象徴として残そう」という意見と「心が痛むので取り壊してくれ」と
二つの意見があるそうである。
遺族の気持ちとは、私達が報道で聞く以上に奥深い襞があり複雑だ。
震災ボランティアも4回目であったが、今回は作業以外にも、貴重な経験をさせていただいた。
牡鹿半島は、東北地方太平洋岸で有名な、リアス式海岸の一番南端に当たる。
リアス式海岸の地形は、湾の奥に行けば行くほど、津波を大きく増長させる。
私の記憶では、最高到達点が38メートルとなった、岩手県の場所があったかと思う。
牡鹿半島から南三陸町までは、湾の入り江毎に小さな漁村が軒並み津波の被害を受けている。
亡くなった人口は、石巻などに比べればずっと少ないのだが、交通の便が悪いこともあり、
復興はかなり遅れ、まだまだ手が付けられていないところも多い。
道路も未だ崩れていたり、通行止めや相互通行ができない道が、何箇所も見られた。
女川の町立病院から見た街は、残す建物以外は瓦礫も全て撤去されたまっさらな街になっていた。
他のバスツアーの人に、地元の方が震災時の語り部をしていたが、思わず耳を傾けてしまう、
真に迫った体験談であった。
東松島市の菅原道郎さんの話もそうであったが、命が助かった人の中にも、間一髪で助かった人は、
沢山いるのである。
大川小学校では、仮設の慰霊碑に変わって、新たに母子像を配した物ができ、式典を行なっていた。
バスから降りることはできなかったが、参加者の多くには遺族の方が含まれていたことだろう。
南三陸では、鉄骨のみになった防災センターの前で、仙台市の聾者の会が、最期までアナウンスを
して殉職となった遠藤未希さんの両親に、折り鶴を渡している場に出くわした。
その後、奇しくも、ご両親の気持ちなどを聞くことができた。
「6mの津波が来た時点で、避難していたら・・・」やはり両親として悔いが残る。
この防災センターも、「震災の象徴として残そう」という意見と「心が痛むので取り壊してくれ」と
二つの意見があるそうである。
遺族の気持ちとは、私達が報道で聞く以上に奥深い襞があり複雑だ。
震災ボランティアも4回目であったが、今回は作業以外にも、貴重な経験をさせていただいた。